1 終戦から家に帰るまで
岩国海軍航空隊屋代島分遣隊で終戦になった。
隊務会報があるとのことで士官全員が集められた、そこで敗戦処理 をどうするかが協議された。その内容を箇条書きにすると
・予備士官は直ちに解散してもよろしい。
・この分校で訓練を受けていた兵学校生徒は解散しそれぞれ郷 里に帰らせる。
・残った隊員で事後処理をする。
事後処理で特務士官から、本体にある燃料や食料等を米軍が使わないように処分することの提案があったが、司令は”アメリカ兵は、自分で食べる物は皆持ってくる、ここのようなまずい物を食べないし、日本のロウ分の多いガソリンは使わないから、そのようなことはしないでよい”でやはり司令は敵の情報をよく熟知していた事に感心した。
下宿に帰り衣料をまとめたが、二つの行李に一杯になった。
第一種軍装・第二種軍装それぞれ夏冬と雨具甲・乙、それに艦内服・陸戦隊服装等々でこれを下宿の叔母さんに預け、もし米軍が来たら、怪しいと思われないように焼いて下さいと頼み、持ち帰るトランクには食料の乾パンと砂糖を一杯詰めて帰ることにした。
一方隊にある拳銃を持っているとやばいと思い、皆でボートに乗せて海中に投棄することにした。
どうせ捨てるならと拳銃二丁を両手に持って、西部劇で見るような形で、島の岩にむけて打ち続けた、拳銃20丁弾薬2千発を処分した。終わって見たら皆の顔が拳銃から飛散した錆止めの油で真っ黒、そして手首は衝撃で赤く腫れ上がり、詰まらんことをしたと後悔した。
兵学校の生徒はカッターで九州や四国へ帰ると言って出て行ったがその晩かなり海が荒れていたので大丈夫かと思ったが、その後の情報は知るよしもなかった、然し皆喜んで喜々として帰って行ったのが印象に残っている。
下宿の叔母さんにはお世話になったと十分な砂糖で甘いぜんざいを作ってもらい腹一杯食べて、とにかく親に一刻も早く元気な姿を見せようと船で岩国へ行き、たまたま来た貨物列車に乗り込んで東へ向かった。
途中広島で1時間ばかり止められ、原爆の後の焼け野原、しかも屋根のない貨物列車で、暑さに参りそうになったがその後の事は記憶に無い、とにかく家に着き、針仕事をしていた母の前で”ただいま”と挨拶すると母はびっくり仰天して仰向けにひっくり返り、そして涙を流して喜んでくれた。
そして村の人も歓迎してくれた、勝っても負けても凱旋やと言って出征した時と同じ神社前で祝杯を上げてくれた。
2 彦根中学校の教諭になる
弟の居た彦中を見ようと、列車で彦根駅を降りた、すると中学生が四列縦隊で並んで学校へ向かうではないか、中学校もまだ軍隊と同じ団体行動を取って居るんだなと感心した。
城の中にある珍しい学校と思い門をくぐると、ゲートルと地下足袋、麦わら帽をかぶった小遣いさん(実は校長)が自転車で通り過ぎたので、呼び止めると、君は誰だと逆に尋問され、校長室に案内され、話をする内に先輩の校長である事が解り、県へ言って辞令をすぐもらってくるから、明日から来てくれと捕まってしまった。そして当分百円を給すると言う教諭になった。軍隊に居たときと同じ給料である。
教員生活が始まったが、軍隊の事しか知らないもだから色々失敗があった。恥ずかしい思いでであった。
・校長室で校長が何時もいやな顔をするのは”校長”と呼び捨てにしていたからで、海軍では殿とか先生とかの称号は付けないためで、他の先生が”校長先生”と呼ぶのを知り、それに習ったためその後は機嫌が良かった。
・海軍では半年ごとに転勤で一番長い時が8ヶ月であった。学校も同じと思い、校長に半年勤務したから他へ転勤さしてくれと進言したら何を言って居るんだと非常識も甚だしい笑われた。
海軍では船が艤装し、食料を積んで航海に出ると半年で帰ってくることになっているからで、その時に乗員も交替して人事異動があるからである。
・海軍では貴様と俺で君・僕と言ったら叱られた、その習慣が付いている物だから、つい貴様と言ってしまうので、友人にも、いやな顔をされた。
・予科練でさんざん絞られて(殴られて)途中で終戦になり復学した連中が、生意気屋と言って下級生を殴ってしょうがない、これは海軍で仕込まれたので、垣見さんに指導してもらおうと全て任されてしまった。
いくら言っても駄目で一筋縄ではいかんと思い、各担任に職員室に呼び込ませ(12名位)、かっての海軍の甲板士官になり、びんたを食わせた、半分ぐらいの者が倒れた、怒号を張り上げて言い含めた、他の先生方がご苦労さんとお礼を言うかと思ったら、皆避けて逃げるようになり、寂しい思いであった。自分も特攻隊くずれと思われているのではないかと空しい気持ちであった。
そしてかっての軍人は公職についてはいけないとのレッドパージがあり、予備仕官は大丈夫とのことで良かったのですが、京都の私立の立命館中学校へ友人が助けてくれとのことで転勤した。
3 大垣北高時代の思い出
昭和23年に大垣中学・大垣高校・大垣北高と変わり、男女共学になった。女子生徒の教育は初めてであった、失敗も多かった。
○従来試験答案を返す場合、名前と点数を読み上げて返してい た、点数の悪い生徒には叱り、良い生徒には褒めて返していた。
共学になり、同様な方法で返却して、後半の女子の順番になろ うとしたとき、女子全員が悲鳴にも似た声で、点数を言っては 駄目と叫び続けた、一瞬呆然となり名前だけにして返した。
○部活動でも男子生徒の場合は遅れてきた者には怒鳴って叱り 罰として、グランド一周させた、女子の場合は泣いて座り込ん でしまう。またバスケットでもファインプレーと褒めると、他 の生徒が妬む、女子生徒の指導の難しさに悩んだ。
京都出身の立派な体格の先生にラグビー部の顧問をして貰った、 その先生が、私が生徒を叱ると皆笑ってしまうと言う、普通な ら震いあがるのにと思ったが、実は叱る言葉がおかしかったの だ、京都弁で”そんなことしてあきまへん・・・・”これでは 皆が笑うはずだ、私もこれから言葉使いを注意しょうと思った。
○ 学校の時間の合図をオルゴールにした
学校の時間の合図は戦時中と同じサイレンであった。空襲警 報を思いだし、暗い感じで、これを明るい感じのオルゴールに した、当時は市販品は無く放送部の連中と一緒に設計して自作 した、音源には音響教育も兼ねて正確な音叉を使い、音楽の先 生にも相談して、始業にはドーソ−ミーラにし、終業にはラー ソーミードにした。タイマーにより、先ず放送室のアンプのA
電源がいり次にB電源、同時にドラムが回転してピンが音叉を 叩く槌を順番にはじいて行くようにし、音叉の音をそれぞれ電 磁マイクで入力して、綺麗な音にした。当時これが有名になり 業者も見に来たりした。そして翌年あたりに業者が市販品を作 ったようで、特許でも取っておけばと思った。
○ 十円玉を入れないと電話が掛からないようにした
当時はまだ電話が普及して居らず、貴重品であった。年末に 事務長が、職員室にある電話を生徒が勝手に使って、電話代が 嵩んでいるので、生徒会費から補助してくれとの依頼があった。
これは生徒が勝手に使ったのではなくて、教師が記帳せずに勝 手に使っているからで、十円玉を入れないと掛からないように してやろうと思い、現在の公衆電話のような物を作った、然し 内部回路をいぢくる事は出来ないので、外部から物理的に作動 するようにした。
ある日教頭が試験監督している私に、交代をするから、職員室 に行ってくれとのことで、行くと新聞記者が待っていた、そし てこれは先生が作ったと聞いたが構造を説明してくれとのこと であった。実は記者が電話をかけようと思ったら金を入れない と掛からないので、試験監督をしている私を呼び出しての質問 であったわけだ。ところが翌日の新聞に写真入りで大きく報道 され、誇張されて何か大発明をしたような記事で恥ずかしい思 いがした。ところが新聞の報道は早い物で、電話公社がみにき た。電話は公社の物だから勝手にいじってはいかんと、見に来 たわけだが、内部をいじっている訳でないから良かろうと言う ことになった。然しその後が大変で、他の高校からも作ってく れとの依頼があり、電通からも5代ばかり作ってくれとの依頼 があり、教え子からも先生大発明をしたとの励ましの手紙が来 るやらで困りました。現在の公衆電話の先駆けをしたわけだ。
○答案採点機をつくって皆をいじめた
大垣北高関東同窓会に出席したときの話で、私が20代の時に 教えた連中と久しぶりの歓談の中で、一緒になって学校の放送 設備をし屋根裏に入って配線したこと等の話に中で、採点機を 作って毎時間テストをさせられたのはえらかったが、先生はあ のとき、現代のパソコンの原型をやっていたのではないかと、 飲むほどに褒め称えてくれて、懐かしい思いをした。
当時生徒は試験前に懸命に詰め込み勉強をしていたようで、
これでは試験が済めばすぐ忘れてしまい勉学の意味がない、そ こで毎時間テストをすることにした、ところが採点に時間を取 られていては肝心の実験準備がおろそかになる。そこで試験採 点機を作って簡単に採点ができるようにしたもので、内容は幼 稚な機械で、回答升にゝを入れる変わりに、回答升を切って穴 を開けさせて回答をさせ、電極が穴で下の電極と接燭してラン プがつくようにした物で、穴を間違えていれば赤ランプがつく ようにしたもであった。これで休み時間の間に採点が出来て効 率が良かった、ところが他の先生から文句が出てきた、それは 私の化学の時間の前の時間には机に隠れて下を向いて化学のバ イトをする者が増えてきて困ると言うことであった、また生徒 からも、これから毎時間しっかり勉強しますから毎時間のテス トは止めてくれとの要望があり止めることにした。
今の先生はどうして居るんでしょうか、採点というネガティ ブウオークに時間を費やしているのではと思いますが、現在は そのための良い機械が出来ており、大学入試センター試験も機 械採点です、然しこの機械はコストが高くて教師個人で持つわ けに行きませんが、カードリーダー・スキャナー等を使えば簡 単に出来るのではと思います。
○ 人を騙すことは訳ないと思った
学校の文化祭で物理部で何をやろうかと悩んだが、当時テレビ がようやく開発され、名古屋からの放送が木曽川までははっき り受像出来たが、大垣では音声だけの場合があり、受信が困難 であった、そこで悪知恵を働かして、額縁に磨りガラスを入れ 下にツマミらしき物を付けてテレビの全面と同じ形にして、後 ろから映写機で映画を映すことにした、名付けて”USO800 型”テレビとして宣伝して映画を見せていた。
皆が本当のテレビと思って見ていると、物理部の連中がほくそ 笑んでいた、たまたま南高の理科の先生が来たので、校内を案 内して、例のテレビの前を過ぎる時に、、費用はどれくらいか、 配線図を設計して作ったのか、大した物だと、 先生も本当のテ レビと思って見ている、これは悪いと思って、別れるときに、 あれは”嘘八百型”ですと言って大笑いして先生を送った、生 徒の話では、父兄も”北高は大したものだ今日初めてテレビを 見た”と感心していたようで、このままでは詐欺になるのでは ないかと生徒とも大笑いで、人を騙すのは訳ないと思った。
このときの映写機は進駐軍が日本へ寄贈して教育機関に配置し た”ナトコ”でした。
○録音機と録音テープの自作
当時の録音機は普通の携帯トランク位いの大きさで値段も高か った、これも生徒と一種に作ろうと、先ずは肝心の録音ヘッド 作りで、これも苦労をしたが、磁気特性の良いパーマロイ鉄心 で、ギャップにはマイカを挟んで砥石で磨き上げて作った。
実際に録音でき再生も出来たが、欲を言えあば音質が少し悪か った。当時の録音テープはスコッチテープと言って値段も高く3 千円もした、これも皆で作ろうと言うことになり、先ベンガラ を電気炉で酸化して、磁性鉄粉にし、テーップは船でさよなら する紙テープを、カミソリを並べて一定の幅に引っ張りながら 切ってテープを作り、これに鉄粉を塗りつけるわけだが、実験 室にあったアラビヤゴムと混ぜて塗り表面の凸凹をヤスリで綺 麗にして作った、そして録音・再生をやったら、音が出たでは ないか、皆歓声を上げた。
オッシロスコープで波形を見てスコッチテープと比較したが
記録磁気量少ない程度であり波形も良かった。そこでこれを毎 年の全国理科教育研究会での発表内容を音楽伴奏を入れて発表 した。ところがその制作現場を見せて貰い教えてくれとの電話 連絡があったようだが、その期間出張中で留守で、貧弱な汚い 場所を見せなくて良かった。
一緒に研究していた生徒の父兄からは、何時も帰りが遅く受 験勉強が出来ないから、早く帰してくれとの連絡があったよう だが、生徒達は相変わらず熱心に実験等をやっていたようで、 大学受験も心配したが皆大学の工学部や弱電関係へ進学して行 った、後になって会社の工場長になったM君から、先生是非会 社へ来てくれと連絡があり、活躍ぶりを話すなかで、放課後先 生と一緒に実験をやっていたのが本当に良かったと話してくれ、 これが、今言われているゆとり教育では無いかと思う。
○ 理科の補習授業は実験で
大学入試に対応するため、夏休みには補習授業が行われ、工学部進学者に対しては、物理・化学の補習授業が行われていた。授業内容は各大学の入試問題のテストと回答の解説で、受講者が次第に減っていった、無理もないことで、毎日テストでは生徒も嫌になる。そこで理科の補習授業内容を実験を主体にしたものにしたら、受講生との減少はなかった、進学塾がいくら頑張ってもこれは出来ないことで、入試後も実験をやっていて良かったと報告があり、これを充実することにした、受験のためならPTAはいくらでも金を出してくれるから、十分に薬品を購入して、各自自由に実験をやらせた。物理の場合も、入試に出た問題をペーパー上で解くだけでなく、実際実験装置を作って実験をやらせた。
有名大学の入試問題はペーパー上での丸暗記では解けない内容、実験を経て実際に理解をしているかを問う、良い問題が出されて居たからである。
○ 若い教師と女性ととの恋愛問題で指導を任される事になる
北高で当時30歳で妻帯していたにもかかわらず青年部の部長のような形で、その指導みたいな事を頼まれていた。
若い教師は良い生徒を捜して次々に結婚していった、県の教職員課からも、北高の先生は嫁さん探しに行っているのではと、そして男子教師と女性ととの問題等も指摘されていた、その指導を校長から任されていたのであるが。私ももう少し遅く結婚すれば良かったなーと思ってしまった。こんな子を女房にすればいいなと思う良い女生徒がたくさん居たからで。私にはその資格がなかった。
家庭教師を頼まれ、生徒との関係が出来てしまったことや、男性教師(妻帯者)と女性教師との恋愛問題等があった。
教師と生徒との間では、教師が悪者にされ責任を取らされるから、絶対に手を出すな、どうしてもと言うなら金で買って処置せよと若い教師に諭したら(当時売春は許されていた)、女性を金で買うのは人権問題だと反論された。
○人事異動での思い出
同じ高校に8年以上勤務していると、人事異動の対象になり、
県の教育委員会から移動の内示がある、小生にも数回あったようであるが、校長が止めていたようで、それは小生が北高の電気関係・放送関係を全部仕切っていて、家庭科の実習でアイロンを多数接続でフューズが切れたりしたとき、放送の例のオルゴールの電源が切られていて、始業のオルゴールが鳴らないとき、度々呼び出されていて、小生が居ないと困るために移動を止めていたようで、13年経て岐山高校へ転勤になった。
4岐山高校時代